【今日の1曲】Psysalia Psysalis Psyche – Titan arum (2009)

本日も引き続き、日本のロックバンド、Psysalia Psysalis Psyche(サイサリア・サイサリス・サイケ、以下「サイサリ」)。

昨日の記事では、今をときめく人気バンドKing Gnu(キングヌー)との共通点、特に中心人物の松本享(サイサリ)と常田大希(King Gnu)について軽く箇条書き程度に書きましたが、本日はもうちょっとだけ突っ込んで比較してみようかな、と思います。

Psysalia Psysalis Psyche「Titan arum」
Psysalia Psysalis Psyche – Titan arum

と、書きながらこれちょっと比較しづらいと言うかKing Gnuには無いタイプの楽曲。

比較云々は置いておいて、まずこの楽曲「Titan arum」についてご紹介すると、2009年リリースされた1stアルバム『Matin Brun』に収録されたもので、それまではガレージロックやパンクの要素が強かったサイサリが、いわゆるシューゲイザーという分厚いノイズ系サウンドを取り入れた1曲。

アルバムジャケットの絵もこの「Titan arum」という花が描かれているので、作品を象徴する1曲と言っても良いのかも知れません。

なかなかものものしい曲で、冒頭歌詞が、

不愉快な種は撒き散らかれている

で始まるという、ここだけ切り取れば今現在のコロナ騒動にもずっぱまりですが、最後

そんな花は毒がある。死ぬほどに美しい。
奇遇だな、そんな毒ならば僕は飲みたい。

で締め括られるという、まあ誰もこの部分をコロナとは重ね合わせないとは思いますが、こういうアンチ的表現も今のような有事の際には少しだけ響きが変わってしまうというか、やはり平和がベースにあってのものだよなあ。とは思いました。

しかし戦後、各地で大変な災害はあれど、それ以外ではよくここまでずっと平常時で来れたな。と改めて思う昨今です。

少し話がずれましたが、この「Titan arum」、非常に意欲的な名曲だと思います。

シューゲイザーサウンドに挑戦するバンドは日本のインディーズも含め世界中にちょくちょくいるものの、大体がこのサウンドのパイオニアである英国のバンドMy Bloody Valentine(マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン)もどきになってしまうというか、轟音にフワッとしたボーカルが乗って「いかにも」な感じ以上のものにはならないケースが大半だと思いますが、これはそれらとは一線を画していて、歌が立っていてシューゲイズサウンドはあくまで要素として使いこなしている感じが素晴らしく、ベースラインも異様に格好良い。

YouTubeのこの動画がUPされて約10年半で67,283再生というのは、凄く少ないとは思いませんが、もっと知られても良いのではないかなー、とは思います。

この流れでKing Gnuと比較して云々するのはあんまり意味がないような気もしてきましたが、少し続けてみると、昨日挙げた通り、共通点と言えばバンドの構成やアート指向なところ等、コンセプトや側の部分が大きく、音楽性の部分で言うと、HipHop・R&B要素がKing Gnuにはあってサイサリにはほぼ無く、共通するところもあれど結構違う。

で、サイサリが何故売れなかったのかというのを考えるに、多分まだそんなに売ることを第一に考えた音楽を作る前の段階で解散してしまったから。ということに尽きるのではないでしょうか。

もう少し書くと、両バンドのメインボーカルのキャラクターは正反対で、親しみ易さを感じさせるKing Gnuの井口理に対し、サイサリの内田紫穏は親しみ易さとは程遠い突っ張った雰囲気で、ここは天と地ほどの差がありますが、時代の違いもありますし、King Gnuが売れた理由に井口理の存在は大きいと思うものの、内田紫穏のキャラがマイナスになったかと言えば特段そんなこともないでしょう。

今回「Titan arum」を選曲しましたが、もし動画があれば同アルバム収録の「Lonesome Valley」という、米国のトラディショナル・ソング(「You Got To Walk That Lonesome Valley」)にもある、「寂しい谷」を意味する楽曲を選曲すれば両バンドを比較し易いかな?と思いましたが、発見できなかったので、その中にあるサイサリというか作詞者のスタンスがよく現れていると思われる歌詞を一部引っ張ることにします。

孤独で終始する人生は多分泣きそうになる
だけど傷や性器舐め合い励まし合うって吐きそうになる。

尖りまくっているし、野暮な言い方をすれば、拗らせまくっている。でもそこには一片の真実のような「詩」がある。

サイサリの歌詞って筆者が見たところ、小沢健二や徳永憲のような緻密な作りにはなっておらず、全体としては結構歪だったり詰め込みが急だったり、言い回しが妙だったり荒削りな部分も多い気がしますが、所々にギラリと光る「詩」が確かに存在しているんですよね。今回引用したギョッとさせるようなものに限らず。

で、サイサリからその詩的なものと、これ説明していないのでどこから出て来たんだって感じですが静謐さを抜いて、子供っぽくしてDragon AshがHipHop辞める前の音楽性で割るとKing Gnuになる印象。乱暴な言い方ですが。
サイサリも若いっちゃ若いけれど、若いと子供っぽいは全然違う。

これって世代の違いもあるのかよく分かりませんが、1983年生まれの松本享と1992年生まれの常田大希と9歳の年齢差。

松本享がサイサリで表現していた突っ張った感じや屈折って、言わば生きるのに効率が悪いものでもあり、余計というか邪魔になりかねないもので、人生を生き辛くするものだと思いますが、常田大希にはそういう非効率なものをあまり感じない。多少皮肉っぽい表現はあれど、先に引っ張った「Lonesome Valley」のような根深いものは無さそう。

個人的な印象ですが、昔に遡るほど人って面倒臭かった。若い人ほど無駄がなく洗練されているような気がします。当然個人差ありますし、あくまで筆者が関わってきた方々での平均値ですけど。

でも芸術事って効率じゃないんですよね。
これどう見てもサイサリ上げのKing Gnu下げ記事になってしまっていますが、King Gnu全然嫌いじゃないです。サイサリ全部好きという訳でもないですし。

ただ個人的にKing Gnuはもっと良くなる余地があると思っていますし、偶然このページに辿り着いた方でサイサリ知らなかったという方は色々聴いてみると良いのではないかと思います。

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